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人間はみな「思い中毒」である :『アップデートする仏教』

 

「アップデートする仏教」を読みました。30年にわたって欧米で仏教を教えてきた2人の僧侶さんの対談集であります。

 



 


仏教とマインドフルネス瞑想の関係について読みたかったんですが、やっぱりお2人の問題意識はかなり現在の認知療法に近い感じ。

 

一照 

なるほど、あなたの症状は「思い中毒」からくるものですよと。だから心の調子が悪くなっているんだけど、これは中毒症状であって、だからこの中毒を解毒するいい方法がありますよ。それには思いを手放せばいいんだ、それには坐禅すればいいんだということなんですね。

 

 

良道 

その通りです。中毒は英語ではアディクション(addiction)ですよね。アディクションといっても、アルコールに対するアディクション、性的なものに対するアディクションなど対象はいろいろあるけれども、人間にとって最大のアディクションって何か? その答えは非常に簡単で、シンキング(thinking)に対するアディクションなのですよ。自分の思いに対する中毒ですね。


このへんとか、暴走した思考が問題を引き起こすと考えるマインドフルネス認知療法にそっくり。その対策として瞑想を使うのも、感覚のレベルにとどまって余分な思考を止めるためですもんね。


で、お2人が定義する仏教のバリーションは、こんな感じ。

  • 仏教1.0=形骸化した日本の仏教(いわゆる葬式仏教)
  • 仏教2.0=心の悩みの解決法をメソッド化した仏教(テーラワーダ仏教とか)

葬式仏教が心の悩みに答えてくれないので、いまの日本では心の治療をメインに掲げる原始仏教やマインドフルネス瞑想が人気なんだ、と。ところが、そんな仏教2.0ではいまいち上手くいかないケースが多く、そこを乗り越えるのが仏教3.0なのだ!ババーン!という話なんだそうな。


それでは、なんで仏教2.0が上手くいかないかと言いますと、

実際に呼吸瞑想をしてわかるのは、シンキングがある世界で呼吸に気づくというのは、実は不可能なんだということです。一度でも瞑想したことのある人なら、そのことを全員知っています。(中略)だけど、そこでもうすでに何か矛盾が露呈してきてしまう。シンキングが落ちちゃったら、じゃ、後は何が残って呼吸に気づいているのか? という当然の疑問が出てくるのに、その後に残るもののことが、どこにもすっきりと書かれていない。


「思考を止めろ」とはいうけれど、「思考を止めた」ことを考えているのも「思考」なんじゃね? それじゃ「思考」は手放せなくね? という認識論っぽい問題意識ですかねー。ただ、別に思考が止まっても五感は働くわけだし、実際にマインドフルネス瞑想の治療効果は実証例も多いしで、少ないサンプル数とシンプルな思考実験だけで「上手くいかない」ことにしちゃうのはどうなのよ、とは思った。


あと、お2人が語る「仏教3.0」の中身も謎。

 本当のヴィパッサナー瞑想とうのは、この生じていること、滅していること自体が終わった世界に入っていくことです。そこまで行かなきゃダメなんです。(中略)シンキング・マインドと肉体に決して還元されない何かがある。いままで決して見えなかった自分の本質がついに明らかになった。


うーん。意味がよくわかりません。というか、それまでは科学的な思考をベースにした仏教の話だったのに、急にスピリチュアルな世界に行っちゃったなーという印象。その後の具体的な方法論も「体の微細な感覚に気づく」とか「慈悲の瞑想」とか、仏教2.0でも教えているような話でしたし。


そんなわけで、悟りとは遠い凡夫の私には、仏教3.0の世界は縁遠かった模様。個人的には、Googleのチャディー・メン・タンが「サーチ! 」のなかで言ってた「普段は欲望まみれでも瞑想中だけ頭がカラッポならOK!」ぐらいのゆるい基準で、今後もやっていこうかと思う次第です。


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1976年生まれ。サイエンスジャーナリストをたしなんでおります。主な著作は「最高の体調」「科学的な適職」「不老長寿メソッド」「無(最高の状態)」など。「パレオチャンネル」(https://ch.nicovideo.jp/paleo)「パレオな商品開発室」(http://cores-ec.site/paleo/)もやってます。さらに詳しいプロフィールは、以下のリンクからどうぞ。