ローマ皇帝はツラいよ | マルクス・アウレリウス「自省録」
マルクス・アウレリウスの「自省録」を読みました。
アウレリウスさんは、いわずとしれたローマ皇帝の一人。めっさエラい人にも関わらず非常に内向的なキャラでして、わたしのような人見知りには学ぶところが大であります(笑)。
本書は、アウレリウスさんが、皇帝の仕事や戦争のあいまを縫って書き残したメモで構成されてまして、基本的には生の無常さが貫かれた内容になっております。たとえば、
君自ら知っている人たちがつぎからつぎへと死んで行ったのを考えてみよ。(中略)昨日は少しばかりの粘液、明日はミイラか灰。
書物はあきらめよ。これにふけるな。君にはゆるされないことなのだ。そしてすでに死につつある人間として肉をさげすめ。それは凝血と、小さな骨と、神経や静脈や動脈を織りなしたものにすぎないのだ。
遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。
肉体のもろさと時間の無情さを強調するフレーズがこれでもかと続きまして、かなり初期仏教に近い感じ。この考え方をベースにしたうえで、アウレリウスさんは日々の暮らしかたを決めていたんですな。
今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること。
君の想念を抹殺してしまえ、その際絶えず自分につぎのごとくいいきかせるがよい。「いま自分の考え一つでこの魂の中に悪意も色情も、心を乱すものはいっさい存在しないようにすることができるのだ。」
公益を目的とするのでないかぎり、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。なぜならばそうすることによって君は他の仕事をする機会を失うのだ。
人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることができるのである。
もっとも、そうはいってもアウレリウスさんとて悟りきっていたわけではなく、日常の雑事や対人関係にはお悩みだった模様。哲学的なフレーズのあいまに、ちょこちょこと俗っぽい話が出てくるところも大きな魅力であります。
「私は暇がない」ということをしげしげと、必要もないのに人にいったり手紙に書いたりせぬこと。また緊急な用事を口実に、対隣人関係のもたらす義務を絶えず避けぬこと。
古代ローマの時代から、「昨日は一睡もしてないんだよ〜」みたいな自慢をする人がいたことがうかがえますね(笑)。
明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」
ローマ皇帝だろうが早起きはツラいんだ、と。
他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自らに問うてみよ、「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか」と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな。
よほどイヤなやつと出会ったんでしょうねぇ。アウレリウスさんの、自分に言い聞かせている感じが涙をさそいます。
最後に、もっともアウレリウスさんに親近感を抱いたのがこちら。
ワキガのある人間に君は腹を立てるのか。息のくさい人間に腹を立てるのか。その人間がどうしたらいいというのだ。彼はそういう口を持っているのだ、またそういうワキを持っているのだ。そういうものからそういうものが発散するのは止むをえないことではないか。
どうやら、周囲にかなり不潔な人がいた模様です。ローマ皇帝が口臭をじっと耐える姿がステキ。
そんなわけで、わたしはアウレリウス皇帝にとても好感を持ちました。本来は皇帝なんかやりたくないのに、ひたすら自分をはげまして激務をこなす姿には涙を禁じえません。オススメ。
ちなみに、本書は講談社学術文庫から新訳が出てますが、格調の高さをねらった文体になってまして、わたしは岩波文庫版のほうが読みやすくて好き。