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小説を楽しむ以外の目的や効能ってなんですか?【イベント質問のお答えシリーズ#10】

 

ということで、「対談イベントの質問にお答えしていくシリーズ」の第8弾です(#1,#2,#3,#4,#5,#6,#7,#8,#9)。前回に引き続き、「小説」に関する質問にお答えしまーす。

 

 

 

小説の感情表現ってどんなパターンがあります?

対談の中で、感情の記憶からエピソードを引き出すため、感情は重要だと話されていました。そこで質問です。

 

小説の中の感情表現というのは、作者が過去に感じた感情を作中の人物に表現させている場合と、この人物のこの時の感情はこれでいくか!と「後付け?」で表現させている場合がありそうだなと思います。前者と後者では作品から受ける印象は変わるものですかね? 今、川上未映子の「黄色い家」を読んでいるのですが、完全に前者だと思って読んでいる自分がいます。

 

面白い質問っすね。おっしゃることは確かにその通りで、キャラの感情をどう表現させるかによって、読み手の印象は変わってきそうであります。簡単に整理してみると、

 

  1. 作者自身が過去に実際に感じた感情を作中人物に表現させている場合:リアリティや生々しさが強くなりやすいので、読者は「実感」をともなう感情を追体験しやすくなり、作者と登場人物の感情に「深さ」を感じられるっぽい。ただし、キャラの奥行きが作者に依存しやすくなる。


  2. 後付けで設定した感情を表現させている場合:「整合性」を重視した感情を選ぶため、読みやすく、すっきりした印象になりやすそう。一方で、生々しさは欠けちゃうし、「作ってるなー」って感じが強くなりそう。

 

みたいな感じでしょうか。これはどちらが良いかってことはなくて、作者の意図や作品の目的、そして読者が求めるものによって異なるってとこでしょう。

 

ただ、感情の乗せ方ってのはこれだけじゃなくて、上の2つの中間にあたるやり方もあるんじゃないかと。それは「キャラが勝手に動き出す」系の方法であります。

 

これは小説家の先生がよく言う現象で、「あれ?書いてるうちにキャラクターが自律的に感情を表現し始めたぞ?」とか「考えてたプロットから離れて違う方向に物語が進んでいったぞ?」みたいな感覚っすね。これが起きる理由はいくつかあるんだけど、おそらくは作家の共感力がフィクションのキャラにも発揮され、脳がそのキャラの視点でシミュレーションを行いはじめ、「この状況なら彼はこう動くだろう」って直感的な判断が生まれた状態なんじゃないかなーと愚考しております。

 

この場合は、キャラの動きにリアル感が出るのはもちろんのこと、ストーリー的にも意外性が生まれることがありまして、フィクションとしてはかなり良いのではないかと思うわけです。いわば意識と無意識、論理と直感のバランスが取れた感じでして、こういう作品をたくさん読みたいなぁ…とか思うわけですね。

 

 

 

小説を解釈しようとする行為は認知的完結欲求に良いか?

対談でおすすめされていた小説を読んでいく際に、登場人物の言動をただ受け入れていくのではなく、「これはどういう意味なんだろう」と自分であれこれ空想しながら読むことは認知完結欲求を下げることにつながるでしょうか?小説を読んでいるといつも自分なりの解釈を見出したくなってしまうので気になりました。

 

小説と認知的完結欲求の関係を調べた研究では、ご質問のような内容を調べたものはなく、あくまで私の推測になっちゃうのをご容赦ください。登場人物の言動の意味を自分で考えたり想像したりしながら読むことは、おそらく認知的完結欲求を下げる方向に働くんじゃないでしょうか。それと申しますのも、以下のようなめかが考えられるからです。

 

  • 認知完結欲求が高い人は、曖昧な状況や不明瞭な情報にストレスを感じ、早く確かな答えを得たいと思いがち。その点で、小説を読みつつ「あれはどういうことだろう?」と考え続けることは、あえて不確実さを許容する訓練になるはず。これを繰り返すことで、徐々に不確実さへの耐性が高まる……んじゃないかなぁ。

 

  • 「作者の意図を知りたい!」って完璧主義的な態度は、認知完結欲求が高い状態の典型例。その一方、「作者が意図したことが明確でなくても、自分なりの解釈を楽しもう」って姿勢は、認知的な柔軟性を高める……んじゃないかなぁ。

 

  • 小説を読みながら積極的に自分で解釈を試みると、考えを「閉じる」のが難しくなるはず。「もしかしたらこうかもしれない」「いや、別の可能性もあるかも」みたいに仮説を楽しむプロセスは、「認知の開放性」を促進する……んじゃないかなぁ。

 

ここらへんを考えると、小説を読みながら「あれこれ空想する」「意味を自分なりに考える」って習慣は、なかなかよろしいのではないかと。ぜひいろんな解釈を見出しながら読書を楽しんでいただければ幸いです。

 

 

 

詩と小説はどう違うの?

リディア・デイヴィスの話題が出ましたが、例えば『サミュエル・ジョンソンが怒っている』の表題作は一行にも満たないが、それでもそれは小説である、といったリディア・デイヴィス自身の小説に対する拓かれた考え方がある、ということについて岸本さんの発言がございました。

 

岸本さんは、最近ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの『すべての、白いものたちの』の帯文も寄稿されていましたが、当該の小説は詩と小説のあわいのような作風で、実際読むと文章そのものは大変詩に近い印象を受けます。

 

しかし、平野啓一郎の解説にもあったと記憶していますが秀逸な構成によって、やはりこれは小説なんだ、と思わされる技術が確かにありました。前置きが長くなりましたが、詩と小説を隔てるものには、一体どのような要素があると考えますか?

 

それらを明確に区別する必要性を感じているわけではないのですが、例えばリディア・デイヴィスの試みを「これは詩である」と形容した場合、「実験的な小説」との間に違いは生まれるのだろうか、とよくある問いかもしれませんが、お二人の見解をお聞きしてみたいです。

 

面白い質問ですねー。おっしゃるとおり、最近の文学では「詩と小説の境界を自由に行き来しようぜ!」みたいな作品も増えてまして、「これは詩だ」「これは小説だ」と明確に線引きする必要性はどんどんなくなりつつあるかと思います。マヂラブの漫才論争みたいなもんで、たいていの表現ってのは、異なるジャンルの境界を曖昧にすることで深化させていくものですし。

 

その前提であえて両者の違いを考えてみるなら、小説は時間軸が前提になりやすいのに対し、詩は空間性を持つことが多いってとこじゃないでしょうか。小説ってのはたいてい物語の展開があるので、時間的な流れを意識させることが多めっすよね。いかに実験的な作品でも「出来事」が軸にあることが多く、たとえ構造が解体されていても、読み手はなんとなく「流れ」や「物語の断片」を期待しちゃうんですよ。

 

一方で詩は、必ずしも物語や出来事を描くことを目的としないので、「一瞬の印象を刻むぞ!」や「ある感覚を抽出するぞ!」ってとこに力点が置かれやすく、言葉が醸し出す空間やイメージが重視される傾向があるんすよ。その点で、リディア・デイヴィスの小説は、詩と同じぐらい言葉が短かかったりするんだけど、同時に読者の想像力の中で物語を生み出す余地を残したものが多いなーって印象であります。『サミュエル・ジョンソンが怒っている』にしても、「なんでジョンソンさんはスコットランドに樹木がないので怒ってるんだろ?」みたいについ考えさせられますからね。「九マイルは遠すぎる」ってフレーズから意外なミステリーが展開していくのと似たようなとこっすね。

 

まぁ繰り返しになりますけど、最近はこのあたりの境界もあいまいな作品が多いんで、「この作者さんは、読む側の想像力をどのように刺激しようとしているか」ってとこに注目しながら読んでみるのも楽しいんじゃないでしょうか。

 

 

 

小説を楽しむ以外の目的や効能は?

小説を楽しむ以外の目的や狙っている効能があれば教えて頂きたいです。

ついでになぜパレオさんの声は聞き取りずらいのか。とどうしたら聞き取れるようになるのか。を科学の見解でお聞かせください笑

 

まー、実際のところ、小説に「楽しさ」以外の効能を求めながら読んでいるわけではありません。あんま「効能!効能!」とか言ってると、どうしてもモチベーションが下がるんで(笑)。

 

以上を前提としたうえで、研究でよく言われる効能を挙げてみると、こんなとこじゃないでしょうか。

 

  1. 認知完結欲求の低下:これはさんざん言ってることですね。個人的には、これが一番大事な効能だと思っております。

  2. 共感性や他者理解の促進:これもフィクションの効能としてよく言われますね。自分ではこの効能を実感したことはないんですが、ここを求めてフィクションを読むのもありでしょう。

  3. 想像力やクリエイティビティの強化:「意味が明確でない文章」や「曖昧な結末を持つ物語」をあえて読むことで、発想力や問題解決力が刺激されるって報告も多め。これについては、「オマケで身についたらいいなー」ぐらいの気持ちです。

  4. 自己認識や自己理解の深化:登場人物の考えや状況に対し、「もし自分だったらどうするか?」とか考えたり、小説を自分の体験や記憶と重ね合わせたりすることで、我が身の価値観や動機について振り返るケースも多め。小説のおかげで自分自身の認識や感情に気づきやすくなったなーと思うことは多いので、こちらも私の中では重要な効能かもっすね。

 

また、私の声が聞き取りずらいのは、

 

  1. シンプルに声が低い
  2. 滑舌が悪いくせに、言いたいことが多くて発話のスピードが速い

 

のが原因です。すいません!改善します!

 


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1976年生まれ。サイエンスジャーナリストをたしなんでおります。主な著作は「最高の体調」「科学的な適職」「不老長寿メソッド」「無(最高の状態)」など。「パレオチャンネル」(https://ch.nicovideo.jp/paleo)「パレオな商品開発室」(http://cores-ec.site/paleo/)もやってます。さらに詳しいプロフィールは、以下のリンクからどうぞ。

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