なぜ「ありのままの自分」になるのは不可能なのか?
「だれもが偽善者になる本当の理由」を読了。
進化心理学をベースに「人間の道徳や偽善の正体とは?」を探る内容なんですが、個人的には「本当の自分なんて存在するの?」って疑問に答えを出す一冊として楽しみました。
本書の大きな前提は、「人間の心はモジュールでできてるので一貫性なんて無いんだよ!」というもの。わたしたちの心は、複数のアプリから成り立つiPhoneのようなもので、統一された「わたし」なんてものは存在しないんだ、と。
心のアプリには、たとえば「エネルギーがなくなったら腹が減るアプリ」や「素敵な異性を見ると飛びつきたくなるアプリ」など、無数の種類がありまして、それぞれが勝手に自らの仕事をしております。が、「意識」アプリには、他のアプリの動きを把握する機能がついてないもんで、しばしば「何であんなことをしたのかが自分でもわからない!」って事態が起きるわけですね。
この考え方は他の本でも見られるもので、たとえば「意識は傍観者である」(http://amzn.to/2tyRnmx)とかは、「意識」アプリがいかに限られた機能しか持ってないかが詳しく書いてある楽しい一冊。で、この「だれもが偽善者になる本当の理由」は、さらに「1つ1つのアプリが『本当の自分』なのだ」ってとこを強調してるのがオモシロいところであります。
心の部位の多くは、ある意味で互いに異なる「さまざまな自己」と見なすことが可能であり、それ自身に割り当てられた機能を果たす。(中略)「さまざまな自己」のあるものはあなたに朝のジョギングをさせ、別のあるものは、あなたをベッドに釘づけにする。また、あなたを賢くするものもあれば、無知にするものもある。しかもあなたは、その多くに気づかない。これらの「さまざまな自己」は、あなたの気づかぬ場所で、設計されたとおりに機能しているだけなのだ。
その代表例が「目の錯覚」で、以下の画像はAとBのタイルが同じ色なんですが、そうと知ってもやっぱり違う色に見えちゃう。これは、「タイルの色が同じだって知識を保存するアプリ」と「タイルの明るさを自動で調節するアプリ」が同時に起動しちゃってるからですね。
ほかにも、幻肢(病気で腕を切り落とした患者が、手術後も「腕がある!」と実感する症状)やエイリアンハンド症候群(手が自分の意思とは関係に動く症状)といった例があげられてまして、このあたりは非常に説得的であります。
当ブログでは、過去に「自己評価の高さにはメリットがない」や「自信は成功のために必要ない」なんて話を書いてきましたが、それもそのはずで、そもそも自己がたくさんあるんだったら「自己評価」って基準自体が成り立たなくなっちゃいますからね。著者いわく、
脳は機能を果たすために進化したことを少しでも考慮に入れれば、自己評価が何も説明しないことはすぐにわかるはずだ。心は、自己評価のために設計されている(つまり自己評価を高めるよう「動機づけられている」)のではなく、心のシステムは、腹一杯食べること、評判、セックスなどの、適応に関連する状況を改善するために進化したのである。
とのこと。進化の視点で考えれば、自己評価の高さと本当の能力に矛盾が起きがちなのも納得。これは、「アナと雪の女王」でいうところの「ありのままの自分」問題にもつながるところで、自己が無数に存在しちゃうんだったら、もともと「ありのままの自分になる」のは不可能って話です。なので、今後も「本当の自分を見つけよう!」と主張する自己啓発書は無視する方向で(笑)。
ちなみに、本書には「アプリ同士の矛盾」に対抗する方法は書かれてないんですが、個人的に有力だと思うのが仏教のテクニック。もともと、お釈迦さんは「本当の自己なんてない!」と言い続けた人で、「心の動きに抵抗するのはムリ」って結論に達したうえで、
- 瞑想とかで心の観察力アプリの機能を鍛える
- 無数のアプリの動きを、できる範囲でよく観察する
- 人間の心は制御できないって事実に脳を慣らす
- 自分の心に全面降伏できるようになる
- 解脱!
みたいなメソッドを提唱しております。仏教版の「ありのまま」とでも言いましょうか。まぁ、「自己」の幻想はかなり強いものなんで、このメソッドも実践はかなり難しいんですけども、道すじがハッキリしてるだけでもありがたいところです。
そんなわけで、「だれもが偽善者になる本当の理由」は、心の仕組みに興味がある方にオススメ。「自己」や「道徳」に関するモヤモヤをスッキリさせてくれる、ナイスな一冊であります。