本当に自分が好きなものを思い出したければ「1人称視点」を使うべし!みたいな実験の話
みんな「自分自身が好きなものはよくわかってる」と思いがちですけど、実はその内容ってかなり歪んでるんじゃない?と主張するデータ(R)がおもしろかったんでメモ。
これはオハイオ州立大学の論文で、まずは研究チームの問題意識から紹介すると、
私たちが何らかのイベントを楽しんだ後で、その記憶を振り返った際に、後から加わった情報が本当の記憶をゆがめてしまうことがよくある。しかし、私たちはほぼその事実に気づくことができない。
たいていの人は、自分のことはよくわかっていると考え、自分が何を好きで嫌いかも理解していると思いたがる。しかし、それはしばしば大きな間違いを引き起こす。
とのこと。やや抽象的な説明ですが、研究チームは以下のような事例を挙げております。
- 若い女の子がサマーキャンプに出かけ、科学の研究を大いに楽しんだ
- が、家に帰ったら「女性は科学に弱い」という偏見がふと頭をよぎった
- その偏見が、無意識のうちに「科学の研究は楽しかった!」という体験をマスキング
- 最終的に「サマーキャンプは退屈だった」という記憶にすり替わる
みたいな感じで、世間的な偏見は自分が持つ思い込みなんかがジャマをして、本当は楽しかったはずの記憶をあとからネガティブに改ざんしてしまうわけですね。
これは先行研究でも割とよく記述されてまして、心理の世界では「あるある」みたいなもんです。ヒトの記憶はいろんな要素で事後的にも変わっちゃうんで、自分が本当に好きだったはずのものがわからなくなるケースは意外なほど多いんですよ。
で、この論文では4つの実験が紹介されてまして、たとえば4つめの研究では、253人の女性に「科学への興味はどれぐらいあります?」と尋ねた後で、みんなに「動物のエコシステムを守る」というテーマの科学的なシミュレーションゲームをしてもらったらしい。
その際、全体を2つのグループに分けてます。
- おもしろく遊べるように調整したゲームをする
- ただただ退屈なバージョンのゲームをする
でもって、そこからさらに全員に「女性が家事をしている写真」を見るように指示して、「女性は家のことをやるもんだ」みたいな古臭い偏見が頭に浮かぶように仕向けたんだそうな。
が、さらにここで「家事の写真」も2パターンを用意してまして、
- 1人称の視点から家事をしている情景
- 3人称の視点から家事をしている情景
のどちらかを見てもらったんだそうな。イメージの視点によって、事後的な記憶の変化に違いが出るんじゃないか?と研究チームは考えたわけですね。
すると、結果は研究チームの読みどおりでして、
- 1人称の視点から写真を見たグループは、偏見に負けずにちゃんと「ゲームがおもしろかった(またはつまらなかった)」と判断できた
- 3人称の視点から写真を見たグループは、偏見で記憶が歪み「おもしろく調整したゲームもつまらなかった」と判断してしまった
だったそうです。おもしろいもんですねぇ。
個人的にこの実験が興味深かったのは、過去には「3人称視点にはストレスを減らす働きがある!」って結論が出てるとこですね。こちらがどういう理屈かと言いますと、
- 3人称の視点で記憶をながめる
- なんだか他人事のような気になる
- 脳の興奮がおさまる
みたいな流れです。3人称視点が脳の理性的なエリアを起動させ、そのおかげで嫌なことのストレスが減るわけですね。
ただ、これにはちょっとした欠点もあって、3人称はあくまで理性を使うトップダウン型の情報処理なんで、特定の記憶を「過去→現在→未来」のを一貫した流れで組み立ててしまいなりがちなんですよ。そのぶんだけ「偏見」や「思い込み」みたいな要素も組み込まれやすくなり、結果として「過去に自分が本当にどう感じていたか?」がわからなくなるみたい。
って、なんだかややこしい話ですけど、ざっくりまとめれば、
- 3人称=理性がいろんな情報を取り入れて判断しようとするため、そのぶんだけ記憶が曇ることが多い
- 1人称=直感で判断された情報をもとにするため、「楽しかった感情」みたいなものはハッキリと残りやすい
みたいな話です。まぁどちらのスタイルにも一長一短があるんで、「つねに1人称を使え!」ってわけじゃないものの、なにかポジティブな感情を大事にしたいような場面では、過去の記憶を1人称で思い出してみるのはアリかなーとか思いましたね。