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「普通」って何?がわからないなら、私たちは何を参考にすればいいのか?問題

 
 

かつては、心理学の世界でも「異常」って言葉が使われたもんですが、近ごろは「あんまよくない言葉だよなぁ」って考え方が広がりまして、ちょっと距離を置こうとする動きが強まっていたりします。実際のところ、最近はこの「普通/異常」という分け方自体が、科学としても、実際に人を救うという意味でも、かなり怪しくなってきてるよなーって考え方が増えてまして、最新の論文(R)がそこら辺を深掘りしてくれておりました。

 

この研究は、精神疾患の診断基準として定番の地位を築いている『精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM-5-TR)』において、「正常」や「異常」といった言葉がどのように使われ、どのような問題を引き起こしているのかを詳細に分析したもの。「異常」という言葉には、なんとなくの怖さがありますが、そこで言う“普通”って、いったい誰が決めており、どのような影響を与えているのかって問題を掘り下げているわけですね。

 

 

 「異常」という言葉の重さと曖昧さ

アメリカ精神医学会のバイブル、『DSM(精神障害の診断と統計マニュアル)』をチェックしてみると、1952年の初版から最新版のDSM‑5‑TR(2022年版)では、「normal(正常・異常)」という語が8回から144回にも増え、20点もの診断リストに「正常/異常」のフレーズが含まれるようになったんだそうな。

 

この現象、一見すると「診断の精度が上がった」のかと思いきや、研究チームの指摘によりますと、

 

  • DSMでは、「異常」という言葉を、人間の主観や文脈を深く考慮せずに、“形式的・機械的”に繰り返し使っている。
  • その使い方も、明確な基準があるわけではなく「この症状が○個当てはまったら“異常”」といった感じで、「主観的で曖昧」に使われている。

 

という厳しい指摘が行われております。つまり、いまの精神医学では、「異常」って言葉をたくさん使う割には、実際には“明確な境界”を示せていないってことですな。

 

ここで、身近な例を考えてみましょう。みなさんにも、決まった朝のルーティンみたいなものがあるでしょう。

 

  1. コーヒーを淹れる
  2. ペットに餌をやる
  3. 食器を洗う
  4. 顔を洗って着替える

 

こんな毎朝の定番ルーティンが、何らかの理由で崩されたら、誰でもイライラするんじゃないでしょうか。当然、このレベルのイライラでは行動が「異常」だとは誰も思わないでしょうが、もしこの状態が進んでしまって、

 

  • 「この順番じゃないと落ち着かない」と感じるようになったら?
  • スケジュールが狂っただけで手が震えるようになったら?
  • ルーティンを乱したものに対して憎しみを抱き始めたら?

 

みたいになってくると、果たしてどこからが「異常」なのかを区別するのは難しいですもんね。まあ「この順番じゃないとどうにもならない」とか、「ちょっと乱れただけで手が震える」ようになったら「ちょっと強迫神経症が出てきたかなぁ」みたいに見えるかもしれませんが、ここら辺の判断もかなり難しいとこではありますね。

 

それと同時に、ビッグデータ時代の問題も指摘されてまして、「みんながこれをやっているから正常!」とか、「これが平均だから健康!」という統計的な判断も問題視されておりました。

 

たとえば、『60%の人が「人前で話すのが怖い!」と言っていた』ってデータがあったら、それが「普通」になる可能性があるわけですが、このデータをもとに『人前で話せる人は「変わり者」なのだ!』だとも言えちゃうわけですからね。こんな感じで、多数派が必ずしも“適応的”だとは言えないわけですね。これもまた難しい問題でありましょう。

 

さらに複雑なのが、文化による違いでして、たとえば日本で「空気を読むこと」は良しとされますが、アメリカなどでは逆に「自分を主張しない=自信がない」と見られることもあったりするじゃないか。つまり、行動自体は同じでも、文化の違いで「正常」にも「異常」にもなるってことですね。『DSM』には文化の違いがある程度まで盛り込まれているんだけど、それでも「どの文化を参照しているのか?」という問いは残りますからねぇ。

 

こんな感じで「異常/正常」というラベルを貼ることには、2つの大きなリスクがありまして、

 

  1. 本当に助けが必要な人を見逃すリスク:「これくらいなら普通」とされて放置され、必要な治療や支援を受けられないケース。たとえば、極度に不安を感じていても、「みんなそうだから」と言われてしまうと、助けを求めにくくなる。

  2. 病的ではないのに病気扱いされちゃう:反対に、ちょっとした個性や癖を「異常」として医療の対象にしてしまう結果、クスリを使う必要がないのに処方されてしまう。これがスティグマ(偏見)と重なると、自己価値感を損なう元にもなり得る。

 

って感じでして、むやみに異常という言葉を使うと、何かと問題が起きてしまうわけですね。これもまた大事なポイントでありましょう。

 

 

 

もっと連続体で診ようじゃないか!

では、どうすればいいのか?ってことで、近ごろ注目されているのが、「分類」ではなく「連続体」で人を評価しようぜ!ってアプローチであります。その代表例は、「代替的人格障害モデル(AMPD)」ってやつで、このアプローチでは、人の性格を「○○障害」「△△障害」みたいにカテゴライズするのではなく、以下のような項目で“傾向”を評価するんですよ。

 

  • 感情をコントロールすることができるかどうか(感情安定性)
  • 衝動をうまくコントロールできているかどうか
  • 他者との関係性をうまく築けるかどうか
  • ある状況や視点に固執せず、必要に応じて思考や行動を柔軟に変化させられるか

 

これらの、複数の軸で人間の行動をとらえてスコア化しようぜ!って考え方がAMPDであります。言い換えると、「あなたは境界性パーソナリティ障害です!」みたいに断定するんじゃなくて、「あなたは共感力が少し低めで、衝動性がやや高めですね」といったニュアンスで捉えるわけっすな。この方法には科学的な裏付けもありますし、「人間をグラデーション」として把握するほうが現実的なのは、個人的にも理解できるところですね。

 

では、この知見をどう使うとよいかって話になりますが、私としては「異常かどうかを診断する」って感じじゃなくて「どこまで自分の人生に適応できているか?」を軸にすれば良いのではないでしょうか。

 

  • 朝のルーティンが崩れるとイライラしまくるけど、仕事や人間関係に悪影響が出ていないなら、それは問題ではない。
  • 逆に、「普通どおり」に生活しているように見えても、実は内面で大きなストレスや疲れを抱えていたら、問題がある。

 

みたいな感じっすね。つまり、診断という“状態の切り取り”よりも、その人がどれだけ人生に適応できているかって視点のほうが、より実用的なんだろうなぁ……と思うわけです。

 

ということで、もし自分が「ちょっと異常なのかも」と思っている習慣、行動、こだわりがあるんなら、

 

「でも、それって仕事や人間関係で支障を来している?それともむしろ助けになっている?」

 

みたいに自分自身をアセスメントしてみるのが良いでしょう。その上で、「これは私の個性だ!」「この個性のせいで苦しくなるようだったら、相談すればいいか!」ぐらいのセルフ・モニタリングの目を持てたら良いんじゃないでしょうか。

 

ってことで、いろいろ書いてきましたが、大事なことをまとめておくと、

 

  • 「異常/正常」というラベルは、非常に曖昧で主観的(DSMでも定義しきれていない)

 

  • 「統計的に多い=健康」ではなく、「個人レベルでの困難・苦痛」に注目すべき

 

  • AMPDのように人を連続体で評価する方が人間の多様性を表現できる

 

  • 診断より「適応できているか」、その人がいかに“より良く生きられるか”を考えたほうがよい

 

みたいになりましょう。いずれにせよ、最近は異常の線引きがいよいよ難しくなってきましたし、自己の“変”なとこにとまどうよりは「俺は適応できているか?」って視点を維持したほうが実りは多そうっすな。

 


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1976年生まれ。サイエンスジャーナリストをたしなんでおります。主な著作は「最高の体調」「科学的な適職」「不老長寿メソッド」「無(最高の状態)」など。「パレオチャンネル」(https://ch.nicovideo.jp/paleo)「パレオな商品開発室」(http://cores-ec.site/paleo/)もやってます。さらに詳しいプロフィールは、以下のリンクからどうぞ。

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