このブログを検索




幸福を追うと失敗するから、人生に根を張れ!というアステカ哲学の本を読んだ話

 
 

新刊『社会は、静かにあなたを「呪う」』の第2章では、「幸せになりたい!」と願うと失敗するよーって話を書いております。幸せは人類共通の願望なんですが、そもそも「幸せ」なんて定義もあいまいだし、いつまでも続くものでもないですからね。なので、「幸せを追いかければ追いかけるほど疲弊してしまう」ってメカニズムが働くんですよ。

 

そこで、新たに読んだ「外部の道(The Outward Path)」って本でも、この幸福のパラドックスに焦点を当てた部分があって激しく共感しておりました。これはニューヨーク州立大学の哲学者セバスチャン・パーセル先生の本で、「アステカの人生哲学」をまとめた珍しい一冊になっております。

 

そもそもの前提として、古代ギリシア以来、西洋哲学は「幸福(エウダイモニア)」を人生の目的に据えております(アリストテレスの『ニコマコス倫理学』とか)。アメリカ独立宣言に登場する「幸福の追求」も、その系譜につらなる発想のひとつですな。

 

しかし、パーセル先生によると、16世紀のメソアメリカに生きたアステカ人は、まったく異なる観点から人間存在を捉えていたとのこと。彼らは「幸福を追う」のではなく「根を張る」という思想で人生を過ごしていたそうで、仏教やストア派のように「内面を整える」方向とは逆のアプローチで、外部から心を安定させる道を重視していたそうなんですな。その考え方には、かなり現代的な意義がある感じなので、勉強になった点を見てみましょう。

 

 

  • アステカ思想において、世界はそもそも「不安定なもの」として理解されていた。大地はしばしば「滑りやすい場所」と表現され、人間は常に転びそうになりながら生きている存在とされる。その背景には独自の宇宙論があり、アステカ人は自分たちを「第五の太陽の民」と呼んだ。これは、太陽はすでに四度滅びており、いまの世界もいずれ崩壊する──という神話が存在したからである。

    そのため、アステカ社会では「永続的な幸福」など存在しないという考え方が基本だった。幸福(paqui)とは一時的な快楽や喜びにすぎず、必ず疲労や痛みを伴うものであり、これを目的にするのは「2メートルの背丈を望む」のと同じく無意味である、と考えられた。

 

 

  • これは仏教の「諸行無常」に近い考え方だが、仏教が「欲望を消すこと」で苦を減らそうとしたのに対し、アステカ人は「根を張ること」で揺らぎに耐えようとした点に特徴がある。これがどういうことかと言うと、

    身体に根を張る(健康)
    精神に根を張る(安定)
    社会に根を張る(共同体との調和)
    自然に根を張る(世界とのつながり)

    といった多層的な世界との「結びつき」を意味している。

 

 

  • 上記の発想は、現代哲学の「関係性の存在論」に通じる。これは人間を独立した個ではなく「関係の網の目の中にある存在」と見る視点で、アステカの人々は、西洋近代の個人主義とは正反対の立場にあった。

    現代心理学もこれに歩み寄りつつあり、近年のポジティブ心理学の研究では「幸福」よりも「意味」や「つながり」のほうが人生満足度に強く影響することを明らかにしてきた。アステカ哲学は、これを500年前にすでに直感していたのかもしれない。

 

 

  • アステカ社会において、意思決定は個人の内面作業ではなく共同体の営みだった。フロレンティン・コデックスには、商人たちが集まって遠征を決める場面が記録されており、ここでは経験豊かな者と若者が同席し、全員が意見を述べる様子が描かれている。つまり、アステカ社会には明確な階層がありつつも、若者の声も排除しない傾向があった。こうした形式は「知恵は一人で生まれない」という信念を反映している。

    この発想は、ソクラテスの「対話による哲学」に近いが、より制度的・共同体的に徹底されていた点が興味深い。つまりアステカ哲学は、思考を「外向きの実践」として制度化した哲学だったと言える。

    これは現代社会でも同じようなことが言え、多様な視点を持つ相談相手を意識的に揃える「アステカ式ディシジョンサークル」を持つことが、賢明な判断の基盤になると考えられる。

 

 

  • 意志力の問題も、アステカ人は外部的な実践として捉えており、彼らは意志力を次の三つに分類している。

    瞬発力:突発的な行動を起こす力
    持続力:努力を継続する力
    抑制力:誘惑を断つ力

    現代の心理学でも、これらの能力が異なる神経基盤に関わっていることがわかっている。たとえば「瞬発的な行動」はドーパミン報酬系と関わり、「持続的努力」は前頭前野の働き、「抑制力」は自己制御のネットワークと結びついている。

 

 

  • 上記のことから、アステカ人は断食や肉体的苦行を「罰」ではなく「診断」として行っていた。これらの行為は、アステカ人にとっては、「自分の弱点がどこか」を見抜くためのリトマス試験紙だったと言える。ここに見えるのは、内省ではなく実践を通じて自己を知り、鍛えるという姿勢である。

 

 

  • アステカ哲学では「正しい言葉(Right Speech)」が重視された。これは「悪口はダメだ!」という意味ではなく、言葉が思考と人格を形成するという洞察に基づいている。たとえば、アステカの文献には、母が娘に「心の奥に智慧の言葉を保存せよ」と語る場面や、父が息子に「ゆっくり話し、耳を大切にし、噂話を避けよ」と説く場面が記録されている。この考え方は、現代哲学の「言語行為論」や「構成主義」に通じており、つまり言葉は単に世界を描写するのではなく、現実を構成する力を持つという発想に近い。

    簡単に言うと、言葉は単なる道具ではなく、行動の“前フレーム”になる。だから日常の言葉選びは、心の筋トレにも等しいと言える。

 

 

  • アステカ哲学における「外向きの道」は、単に実践的な生活術ではなく、哲学そのものの役割に直結する。アステカの哲学者たちは「鏡を持つ者」とされ、他者に自分を映し出す役割を担っていた。これはソクラテス的な「魂の助産術」にも似ているが、より社会的・共同体的な位置づけを持つ。

    ここで思い出すのが、ヴィクトール・フランクルの「意味による治療」である。フランクルは、妻を亡くして絶望していた老人に「あなたは彼女の苦しみを肩代わりした」と意味を再構築させたエピソードを書き残しており、これはまさに「外向きの視点の転換」が内面的な癒しをもたらす例だと言える。哲学の価値とは、こうした無形の再構築の力にあり、これはお金や名誉ではなく人間の苦しみを意味に変える力だとも表現できる。

 

 

ってことで、アステカ哲学について語った本のお話でした。アステカの考え方はまったくなじみがなかったんですけど、「幸福を追うことはできない。できるのは、根を張ることだ」ってのは、意外と仏教にもつながる考え方でおもしろいっすね。内面を整えようと力むのではなく、外部の環境・習慣・共同体を整えようぜってのは、最近の心理学との知見ともつながるところですしねぇ。あと、個人的にも「人生は滑りやすい道」だと理解しているんで、そこをベースに実践哲学を構築するあたりも共感が持ててよいですね。


スポンサーリンク

スポンサーリンク

ホーム item

search

ABOUT

自分の写真
1976年生まれ。サイエンスジャーナリストをたしなんでおります。主な著作は「最高の体調」「科学的な適職」「不老長寿メソッド」「無(最高の状態)」など。「パレオチャンネル」(https://ch.nicovideo.jp/paleo)「パレオな商品開発室」(http://cores-ec.site/paleo/)もやってます。さらに詳しいプロフィールは、以下のリンクからどうぞ。

INSTAGRAM