「寂しい」という感情は怒りの一種である | 「サンガジャパンvol.16」
「サンガジャパン」のVol.16を読みました。
「サンガジャパン」は初期仏教の専門誌というニッチな雑誌で、オカルトに走らずあくまで科学的な態度をつらぬいているあたりがナイス。特集のテーマに「怒り」を持ってくるあたりは、仏教書としては当然なんでしょうが、雑誌としてみるとなんだかシュールさがあって好き。
で、巻頭は「怒らないこと」などで有名なスリランカ初期仏教長老のスマナサーラさんが語るQ&A。「怒りとは自我の産物である」って考え方をベースに怒りの対処法を答えていくんですが、いつもながらの率直な言い切りが楽しいです。
我々は人を非難したくなるし、叱りたくなるし、裁きたいと思っているのです。そして「自分は偉い」という態度で生きていますが、現実は逆です。
情けなくて、汚くて、品格ある人間として生きる資格がまったくない、ゴミなのです。
だからこそ、凶暴な態度をとります。自分が弱いので、他人の弱みに耐えられないのです。ですから、その汚い性格を治さないといけません。
いやー、ここまで言い切られるとすがすがしい。ダライ・ラマさんもそうですが、初期仏教の偉い人って、ときどきニコニコしながら急に棍棒でなぐりかかるような言葉を投げてきますよね(笑)。
また、スマナサーラ長老いわく「寂しい」という感情も怒りの一種だそうで、ひとりでいる時間は瞑想をするチャンスだと考えて、人格を向上させることに意識を向ければいい、とのこと。
修行に励む人に、「寂しい」という気持ちは生まれません。余計な関係はつくらないこと。携帯のメモリがいっぱいになるほどメアドを集めたりする必要はないのです。そういうことに必死になるのは、相当な心の病気です。
友だちが多ければいいというのは、俗世間の思考です。携帯のアドレス帳がいっぱいということは、そのぶん、心が弱いということなのです。仏道は世間とはいつでも逆です。(中略)
「ソーシャルになりたい」人には仏道を理解するのは難しいと思います。
このあたりも、ソーシャルが苦手なわたしにはまことに心強いお言葉でした(笑)。
そのあとのプラユキ・ナラテボーさん(タイに住む日本人僧侶)と熊野宏昭さん(早稲田大学教授)の対談がまたおもしろくて、最新の心理療法と初期仏教の考え方が共鳴しまくっております。瞑想の本質は、パーソナリティを変えるだけでなく、「自我は本当はない」ことを理解してパーソナリティを解体するところにあるんだ、と。なるほど。
特にいまのわたしに染みたのが、瞑想のせいで逆に感情がなくなってしまう人がいるって話。
言葉は言葉、現実とは別だということをしっかり気づいて、そのつど理解していくようにしましょう(脱フュージョン)という働きかけをするんですが、これが意外と体験の回避につながってしまうのです。
最初は、患者さんも言葉に巻き込まれちゃだめだ、と思って一生懸命やります。でも、そうしているうちに、「先生、何か最近あまり感情が感じられなくなってきたんですが」と言い出して、回避が起こっていることがわかる。
要するに、悩みや思考を「よくないもの」と考えて距離を取りすぎた結果、感情が薄れてしまうらしい。実際、わたしもマインドフルネス瞑想で感情の客観視ばっかりが上手くなったあげく、やたら虚無感に襲われたりすることがあったので、そういうことだったのかー、と納得。最新の認知療法であるACTでも、悩みや思考を自分の一部として受け入れるのが一番大事とのことで、ちょっといろいろ考えなおさにゃあきませんな。
このほかにも、実際にオウム真理教のトレーニングを試してみて「あの神秘体験は単なる生理現象」と喝破する久保田和尚の話とか、現在の一般向け仏教書はデタラメだらけだと言い切る藤本晃さんの論考が刺激的。読みがいのある一冊でありました。