人見知りのための仏教活用入門・その2「三相編」
以前に、心理学者のアーニー・コザックさんが書いた「仏教のすべて」って本から、「仏教を人見知りの世渡りに活かす方法」を紹介しましたが、今日はその続き。「三相」について取り上げてみます。
なんでも仏教には「三相」っていう概念があるそうで、Wikipediaによれば、こんな意味みたい。
法(ものごと、現象)の三つの性質を示すもので、「三相(ti-lakkhaṇa)」と呼ばれ、修道上の教えとして、実践的に観察することが強調される。(中略)
- 無常 - anicca 常に変化し続けること。
- 苦 - dukkha 苦しみ、不満であること。
- 無我 - anatta 我ではない、すなわち、「私のものではない、私ではない、私の本質ではない」ということ。
要するに、
- ものごとは、みんな変化する
- なので、ずーっと同じ「自己」なんてものはあり得ない
- そこがわからずに、同じ自己を求めるからツラくなる
みたいな感じでしょうか。
著者のアーニーさんいわく、この発想は現代の神経学にも近くて、いまは「自己は実体じゃなくて、たんなるプロセスである」って考え方が普通なんだそうな。このことを、アーニーさんは「自己は名詞じゃなくて動詞なんだ」と表現していて、これもまたおもしろい言い方だなぁ、と。
で、この「『三相』を理解して実生活に活かすのが、悩みからラクになるためのコツだ!」というのが本書の主張です。特に人見知りは、内省的なせいで自分の思考にしがみつく傾向が強く、自己の問題に苦しむ傾向が強いんだそうな。
そこを打ち破るために、アーニーさんが提唱するのは「ストレスをアラームとして使う」方法。ストレスを感じたってことは、つまり「実体がないはずの自己を守ろうとしている証拠」なので、ストレスを自覚したらすぐに「三相」を思い出せばいいわけですね。
まとめてみますと、
- ものごとはつねに変化する(無常)
- その現実に歯向かうと、ストレスが生まれる(苦)
- その現実に気づかなくても、やっぱりストレスが生まれる(苦)
- したがって、ストレスを感じたってことは、自分が現実に歯向かっているか気づいていないかのどっちか(苦)
- 現実にしたがうためには、自分の思考にしがみつかないこと。自己だって、つねに変化するプロセスの1つだから(無我)
- なので、自分の頭に浮かんだ考え方だろうが、周囲の考え方だろうが、個人的な問題としてとらえてはいけない(無我)
- 無常最強!
って感じです。個人的には非常に共感できる考え方なんですが、とはいえ急に「自己なんてないんだ!」って実感するのは難しいよなぁ、とも思います。
にしても、現代の心理学と神経学の最先端を行ってたブッダさんは、あらためてハンパないですね。今後はブッダ兄さんと呼ぶことにしよう。