タモリと初期仏教
「タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?」を読みました。
過去に発表された膨大なインタビューや関係者の証言をもとに、稀代のテレビマンである「タモリ」の人物像を浮かび上がらせた労作。著者の予断や解釈はできるだけ抑えられていて、バツグンの説得力でありました。
本書にもあるとおり、90年代ごろからタモリさんには「悠々と仕事をこなす趣味人」のイメージがつきまして、ある種のロールモデルに祭り上げられた感があります。その背後には、未来と過去への諦念と言語に対する愛憎がありまして、なんとも初期仏教の教えを読んでいる気分になりました。
具体的にタモリさんの発言を引きますと、
「意味をずーっと探すから、世界が重苦しくなるんだよ」
「コトバをやっつけようという気はありますね。コトバを使ってね」「コトバっつうと、まず意味でしょ。そのへんからやっつけたかった。意味をなくそうって……」
このあたりは、思考が人間に苦をもたらすと考えたお釈迦さんの見解によく似てますし、言語のバーチャルな機能こそが精神を病む原因だと考える最近の認知行動療法の考え方にも近いものを感じます。
あるいは、「目標」や「夢」に関するタモリさんの見方。
「目標なんて、もっちゃいけません」とタモリは言う。その理由はこうだ。
「目標を持つと、達成できないとイヤだし、達成するためにやりたいことを我慢するなんてバカみたいでしょう」
「『夢なんか語らねえんだ』と。夢があるから絶望があるわけですから」
求める物が得られないと苦しいし、求める物が得られてもまた苦しいと説く、初期仏教の四苦八苦の教えを思い出しました。
なかでも面白かったのが、タモリが寺山修司のものまねをしていたら、ドライブがかかって憑依状態になったときの発言。
「自分でもワァー、オレたいしたものじゃないかとおもうくらい(笑)」
「すごく楽なのね。自我滅却」
「マネも自分がまったく変わるほどにいくとおもしろい」
自我が消えるほど没頭しつつ、それを一步ひいて見るメタ認知も機能していて、まさに仏教でいう「禅定」の状態といいますか。ポジティブ心理学でいう「フロー状態」といいますか。なんともうらやましい境地です。
タモリさんの若いころは、知識人のあいだで言葉に対する疑念が持ち上がりはじめた時代で、おそらく、そのあたりの知識と持ち前のセンスが合わさって、意図せずして初期仏教に近い考え方になっていったのかなぁーと推測。いやー、とても勉強になりました。