仏教徒は本当に死が怖くないのか?問題
自己がなければ悩みもないわけですが……
「本当の自分なんて存在しない!」と言い切ったのがブッダさんのすごいとこなわけです。
人間の性質は状況によってコロコロ変わるし、時間によって思考の働きもガンガン揺れ動くしで、とにかく「一貫した自己」を特定するのはムリな話。そんなものに囚われてるから悩みが生まれるのだ!って考え方ですね。
これは近年の脳科学でも近いアイデアが出てたり、心理学でも「人間にはいろんな自己があるよねー」って考え方が普通になってたりで、ブッダさんの先見性には頭が下がるばかりです。確かに、普通に「自分ってなによ?」ってとこを詰めてくと、こういう結論になるしかないんすよね。
とはいえ、「一貫した自分など無い!」と言われても、そう簡単には納得できないのが人間であります。というのも、もし「自己」がなかったら全ての欲望もなくなっちゃうんで、人類が存続できなくなりますからねぇ。いかに自分が錯覚だとしても、それは遺伝子にガッツリ組み込まれた生存機能のひとつなんで、いかんともしがたいところです。
仏教徒は死を超越しているの?
が、そこで「自己が錯覚だと認識すれば全ての悩みが消える!」と言い切るのが初期仏教のすごいところ。なにせ、本当の自分が無いなら悩みや苦しみなんて生まれようがないし、さらには死の恐怖さえ感じないって結論にしかならないわけです。
……なんだけど、「じゃあ本当に仏教徒って死ぬのが怖く無いの?自己を超越してるの?」って問題を調べたナイスな論文(1)が出ておりました。
これはアリゾナ大学の研究で、インドに亡命した敬虔なチベット僧たち数百人を対象にしております。調査したメインのポイントは、
- 一貫した自己が続いていると感じるかどうか
- 死ぬのは怖いかどうか
- 他人のために自分を犠牲にするのが嫌かどうか
の3つ。いずれも「自己」の存在を信じてなければ、答えは「NO」になるはずですね。
実は仏教徒の方が死を怖がっていた
で、すべての回答と一般的なアメリカ人の答えとくらべたところ、
- チベット僧のほうが「自己は永遠では無い」と答えるケースが多かった(これは予想どおり)
- ただし、チベット僧のほうが「死ぬのが怖い!」と答える人が多かった(意外)
- さらに、チベット僧のほうが「自分を犠牲にしてまで他人のためになる行動をしない」と答えた(えええー!)
って結果だったそうな。なんと、普通のアメリカ人よりも、慈悲の心を重んじる仏教徒のほうが自己本位だし、死ぬのも怖いという結論であります。うーん、びっくり。
ちなみに、「自己犠牲」のレベルをどう計測したかというと、以下のような質問に答えてもらったらしい。
- 自分が飲むと半年だけ寿命が延びる薬があるとします。しかし、この薬を他の人にあげると、その人の寿命が5年延びます。あなたは、この薬を自分のものにしますか?
この問題に対して、一般的なアメリカ人は31.2%が「イエス」と答えたのに対して、チベット僧の数字は72%にものぼったらしい。確かにこれは自己本位っすな。
なぜ逆に死が怖くなるのか問題
この現象に対して研究チームは、「自己が永遠と信じてないから逆に怖くなるんじゃない?」との仮説を立てております。どういうことかというと、
- 自己は永遠では無いと知っている
- つまり、死ぬとそこで全ては終わりになる
- 死の恐怖が増す!
みたいな流れですね。個人的には、一般人よりチベット僧のほうが「自己」について考えることが多いせいで、逆に自分を強く意識しちゃうのかなーとも思いますが。あと、単にアメリカ人よりチベット僧のほうが正直な可能性もあったりとか。
いずれにせよ、いかに敬虔なチベット僧でも「自己の錯覚」を脱するのは楽じゃないんだなー、ってのがよくわかる良い研究ではないかと。ちなみに、この研究は新人の僧侶も対象になってるんで、次回は瞑想歴が長いベテランを中心に調べて欲しいと思う次第です。