プライバシーが崩壊する時代に、自分らしさを守る方法とは?を考えた本を詠んだ話
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『見知らぬ人と親しい人: プライベートライフの盛衰(Strangers and Intimates)』って本を読みました。著者のティファニー・ジェンキンズさんは文化史家で、エディンバラ大学美術史の名誉フェローらしい。
本書は人類の歴史をもとに「パブリックとプライベートの境界線がいかに変遷してきたか?」「そして今その境界が崩れつつある背景とは何か?」ってのを解き明かす本になってまして、SNSやオンライン会議などのせいで「自分だけの空間」がいよいよ減りつつある現代の問題を考え直そう!ってのがメインの主張になります。いかにも現代的なテーマでよろしいですな。
ってことで、いつも通り本書から勉強になったポイントを抜き出してみましょう。
- 私たちは日々、「仕事かプライベートか」「公か私か」「SNSか対面か」といった区別を無意識に行っている。が、こうした二項対立は思ったよりも重要で、「公共」と「私的」の境界をいかに引くかという問題が、これまで私たちの社会や生き方を形づくってきた事実に注意を向ける人は少ない。たとえば、近年の変化としては、
・昔は家庭内のことを外で話すのは“はしたない”とされていたのに、今ではSNSで夫婦喧嘩を実況中継することすらある。
・昔は政治的立場は秘めるものだったのに、今は就職活動でも「多様性への意識」をアピールしないといけない。
・昔は職場の上司に子どもの病気のことを打ち明けるなんて考えられなかったのに、今はそれが“本音を言える組織文化”として推奨されている。
といったものがある。こうした変化は「開かれた社会」「自己表現の自由」といったポジティブな進歩でもあるが、一方では「どこまでが自分だけの領域なのか?」という感覚を曖昧にさせ、自分の思考や感情、価値観を“公共の目”によって左右されてしまう原因となる。つまり、今の私たちは、「他人からどう見えるか」に基づいて、無意識に行動を変え、自分の輪郭を削ってしまいやすい。
- また、私たちは「公私の境界の設計」を自分で行っているように思っているが、じつは多くの場合、それを外部の力によって決められていることの方が多い。例えば、
・SNSの設計者(バズりやすい投稿を誘導するアルゴリズム)
・企業の広報文化(本音を出せと言いつつ、出しすぎたら干される)
・政治や行政の価値観(何を公共にふさわしいとするか)
などである。ジェンキンズさんは、この状況を「自分の輪郭を他人が描いている状態」と表現しており、「公」と「私」の境界を自分で意識しないと、誰か他人が勝手にその境界を引いてしまい、その結果として、自分らしさや安心感が少しずつ失われていくと指摘している。
- 古代ローマでは、公衆トイレが社交場だったことが知られている。古代ローマでは、他人と会話しながら用を足すことが日常だったし、隣の人の排せつもタブーではなかった。さらには、上流階級の邸宅にはポルノ的な絵画がガンガンに飾られ、そこに羞恥の感情が発生することもなかった。
ところが18世紀イギリスになると、性は厳格に管理されるようになり、婚外性交渉も違法化し、同性愛は重罪とされはじめた。これにより、隣人たちを相互に監視することが“善良な市民の行為”とされるようになった。
この変化が示すのは、プライバシーの境界そのものが、文化と法律と宗教と制度によって定義されてきたという事実である。つまり、プライバシーというのは「自然な人権」であるように見えて、実は19世紀末アメリカで法律論の形になって初めて“権利”として確立された、歴史的には新しい概念なのだと言える。特に1890年のウォーレン&ブランダイスによる論文「The Right to Privacy」は、初めて「私的な領域の権利」を主張したもので、これが近代プライバシー概念の原型だと言える。
が、現代では、先にも見た通りプライベートが消えつつあり、私たちは「私的な領域の権利」の概念を失おうとしている。それを取り戻すためには意識的な努力が必要となる。
- プライベートが失われたことによって起きた最大の問題は、「知らない人には自分の痛みをさらすのに、親密な相手には相談できなくなった」というものである。例えば、
・InstagramやTwitterでは、失恋や職場ストレスを赤裸々投稿できるのに、パートナーにお金の愚痴を言うのははばかられる。
・会ったこともない人と政治談義を交わせるのに、兄弟の寝つきの悪さなどは指摘できない。
といった問題が挙げられる。
- 上記のような問題が起きる理由はいくつか存在するが、第一には「本音=善」という文化の台頭である。近年、「自分らしさを出そう」「オープンに語ろう」というメッセージが至るところで聞かれるようになり、「隠すこと」はネガティブに、「さらけ出すこと」はポジティブに評価される風潮が広がっている。この結果、「人に話す=正直で誠実」「隠す=後ろめたい」という構図ができてしまった。これは本来、親密な人間関係の中でじっくり育てていくべき「本音」や「弱さ」が、“誰にでも見せるべき資産”として扱われるようになってしまったことを意味する。
- また、SNSの設計が「即時の承認」を最大化するようになっているのも問題である。ほとんどのSNSは、私たちが「ウケる内容」を無意識に選び取るよう設計されており、自然と自分の感情や弱さ、家族の出来事まで“コンテンツ化”して発信するようになってしまう。その結果、「共感してくれるフォロワー」のほうが、無言でスマホを見ている家族よりも“親密”に感じられ、身近な人との本当の会話が希薄になっていく。
- さらに、ネットで本音をさらけ出すのが常態化すると、親密な関係に伴う「責任」を回避するようにもなる。本当に親密な相手、たとえばパートナー、親、兄弟、友人との関係には長期的な責任や相互依存があるため、彼らに弱みを見せる事は相応のリスクがつきまとう。その一方、SNSでの“他人”は、受け手でしかなく、関係が壊れるリスクは低い。つまり、SNSのほうが「責任を問われずに吐き出せる」場として機能するようになり、不特定多数に自己開示するほうが気楽に感じられてしまう。
- しかし、深く考えたり、自分の意見を煮詰めたりする時間は「オン状態からの離脱」がないと成立しないし、親密な関係も「誰の眼もないところ」でしか育まれない。プライベートという「外的要求からの解放空間」がないと、私たちは、日々のエネルギーをリチャージすることもできなくなってしまう。つまり、プライベートは“逃げ場”ではなく“整地”であり、“温室”のようなものだと捉えた方が良い。これは、人間が健全に生きるために欠かせない機能である。
- では、現代においてプライバシーを取り戻すにはどうすればよいのか? ジェンキンズさんの処方せんには、以下のようなものがある。
・「公」と「私」を自分で区分する:仕事用メールと家庭内連絡を物理的に分ける、SNS投稿と家族との本音語りを使い分けるなど。
・誰にも見られない“間”を設ける:スマホオフの日、副業断ち、週末にデジタルデトックスする習慣を意図的に作る。
・プライバシーを「悪いものの隠れ蓑」と捉えない:隠す=後ろめたい、ではなく、隠す=大切な自己養育の時間と捉える。
こうした意識的な境界設定は、一見しょぼい対策のように見えるかもしれないが、じつは人格形成・精神的回復・親密な絆の構築といった「人生の質全体」に関わる重大な効果をもたらすと考えられる。
ということで、大きな結論としては「自分にとって見せたいもの」と「見せたくないもの」を自分で定義し直せ!って感じで、まことにお説ごもっともではないでしょうか。個人的には1人でぐだぐだ考え続ける時間がないと死ぬタイプなので、ここらへんは今まで無意識にやっていた気がしますが、あらためて意識的に定義したほうがいいのかなぁとか思わされましたね。