AI時代に必要なのは、知識より「自分だけのデータ」である!という本を読んだ話
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『私はロボットではない(I Am Not a Robot)』って本を読みました。著者のジョアンナ・スターンさんは、NBC Newsのチーフ・テックアナリストで、テクノロジーを実際に体当たりで試すタイプのジャーナリストとして有名なんだそうな。
で、本書は、著者が1年間にわたって、AIやロボットに生活のあらゆる部分を任せてみた実験を記したもので、仕事、健康管理、子育て、人間関係、創作活動、家事など、「AIにできそうなことを、とりあえずAIにやらせてみたらどうなるか?」をまとめた体験記ですね。
そのうえで、スターンさんは、最終的に「AIは人間の思考や創造性を支える道具であって、人間そのものの代用品ではない!」ってとこをテーマに置いてまして、いかにも現代的な話になっておりました。現代はあらゆる作業をAIに任せられるようになってるものの、その結果として、思考力や判断力までAIに預けてしまってるんじゃないか、ってことですな。
というわけで、今回も本書から勉強になったところをチェックしてみましょうー。
- 本書の基本的なメッセージは、もちろん「AIを使うな!」ではなく、「AIに考える作業まで丸投げすると、人間の判断力は普通に衰えるぞ!」というものである。AIを使えば、いろいろな作業が一瞬で終わるが、ここで問題なのは「考えるうえでしんどい部分」まで全部AIに渡してしまうことである。苦労して文章を読み、何が大事なのかを考え、自分の言葉でまとめるプロセスこそが、思考する力を高めるトレーニングになっているからである。
- 著者が大学の授業を調べたところ、多くの学生が、AIを使って読書を要約したり、レポートを書いたりしていた。これは決して悪いことではないものの、一部には「自分はもう考えていない気がする」と感じた学生が存在していた。これは、AIによって作業がラクになる一方で、「思考」に負荷がかからなくなっている可能性を示すのかもしれない。
- 私たちの思考は筋肉と同じであり、筋肉は負荷をかけないと、どんどん衰えていく。同じように、私たちの思考も、面倒な文章に引っかかり、わからない概念と格闘し、なんとか自分なりの理解に変えるからこそ、頭の中に新しい回路が作られる。AIにすべてを任せるというのは、補助輪付きの自転車ばかりを使い、一生自分の足でこがないようなものだと言える。
- 大事なのは、「AIと一緒に働く」ことであって、「AIに働かせる」ことではない。AIは、退屈な作業を短縮したり、アイデアの壁打ちをしたり、たたき台を作ったりするにはめっちゃ役立つ。しかし、この時に、自ら問いを立てること、何を大事にするかを決めること、最終的な判断までをAIに渡してしまうと、いつの間にか主従が逆転してしまう。
- 文章を書くときにも、これはよく起きる。AIに「このテーマでブログを書いて」などと頼めば、そこそこ読める文章はすぐに出てくる。しかし、その文章に自分の違和感、自分の記憶、自分の偏見、自分の体験が入っていなければ、それはただの平均的な情報のかたまりでしかなくなる。AIの文章はきれいだが、きれいすぎる文章からは人間の気配が薄れる。
- 必要なのは、「最初のぐちゃぐちゃした思考」を自分でやることである。いきなりAIに投げるのではなく、まずは紙とペンで「何が引っかかるのか?」「自分はどこに怒っているのか?」「この話の一番おもしろい部分はどこか?」を考えてみる。そのうえでAIを使った場合は、かなり強い道具になってくれる。逆に、最初の違和感までAIに探させると、自分の中にあるはずのセンサーがどんどん鈍ってしまう。
- もうひとつ、本書は「AIに感情移入するな」と警告している。近ごろのチャットボットは、こちらが言ってほしいことを高精度で返してくれるようになっており、こちらの好みに合わせて会話を最適化してくれるし、人間の友人やパートナーのように機嫌が悪くなることもなければ、急に忙しくなることもない。
となると、AIに感情移入してしまう人が出るのは当然で、それというのも人間の脳は、自分に反応してくれるものに愛着を持つようにできているからである。そもそも人間はぬいぐるみにも感情移入する生き物なのだから、自分の悩みに完璧なタイミングで返事をくれるAIに親しみを覚えるのは、むしろ自然な反応だと言える。
- しかし、AIはあくまで「鏡」でしかない。AIは、あなたの孤独や欲望や不安を反射しているだけであって、そこに本当の意味での他者がいるわけではない。もちろん、一時的な相談相手やコーチとして使うのは効果的で、嫌なことがあった日に気持ちを整理してもらう、考えを言語化する、行動プランを作る、といった用途なら、AIはかなり便利である。
- ただし、AIを人間関係の代用品にしてしまうと、現実の関係に必要な「面倒くささ」を避ける方向に進みかねない。人間関係は、だいたい面倒なもので、相手には相手の都合があるし、こちらの期待どおりには反応しないし、傷つけられることもある。けれど、その不便さの中にしか、「他者と出会った!」という感覚は存在しない。AIとの会話は快適だが、快適すぎる関係は、人間を少しずつ弱くする可能性がある。
- プライバシーの問題も大きい。AIやロボットは、便利になればなるほど、こちらのデータを必要とし、スケジュール、健康状態、家族構成、会話履歴、好み、仕事の内容などの情報を渡す必要がある。これは便利な反面、「自分の生活がどこまで企業の学習素材になっているのか?」という問題を生む。実際、著者が取材したロボット企業では、「どれだけ便利にするかは、どれだけデータを差し出すかとのトレードオフだ」という会話がなされていた。
- もちろん、すべてのデータ提供が悪いわけではなく、地図アプリに位置情報を渡すから道案内してもらえるし、検索履歴があるからおすすめの精度も上がる。ただ、「なんとなく便利だから」という理由で、人生のあらゆるログを渡し続けるのは危うい。AIに相談しているつもりが、いつの間にか自分や家族の情報を大量に差し出しているかもしれないからだ。便利さとプライバシーは、基本的にトレードオフである。
- なので、AIを使うときは、少なくとも「この情報を渡す必要があるのか?」「そのデータは保存されるのか?」「学習に使われるのか?」「家族や子どもの情報まで含まれていないか?」ぐらいは考えたほうがよい。AIの時代には、知識そのものよりも「どこまでデータを渡すか」を判断する力のほうが重要になるかもしれない。
- AIは自信満々に間違える。これは仕方がないことだが、AIは文章がそれっぽいぶん、間違いが間違いに見えにくいことが大きな問題となる。これは大人にとっても危険だが、子どもは権威のあるものや賢そうなものを信じやすいため、さらに大きな問題になる。
とはいえ、子どもにAIを禁止するのは得策ではない。これからの子どもたちは、どうせAIと一緒に生きることになるのだから、大事なのはAIを使わせないことではなく、「AIの答えを疑う作法」を教えることである。「この答え、変じゃない?」「ほかの可能性はない?」「どこに根拠がある?」「本当にそう言える?」といった問いを、親が声に出して見せる必要がある。
この意味で、子どもに必要なのは、デジタルリテラシーよりもデジタル懐疑主義である。ここでは、子どもにAIの使い方を教えるだけでは足りず、AIの間違いを一緒に発見し、答えを鵜呑みにしない姿勢を見せることが大事になる。
- また、子どもはAIの使い方を学ぶべきだが、それと同じぐらい、退屈、失敗、努力、想像、失恋、ケンカ、ぼーっとする時間などが必要である。ソファのクッションで秘密基地を作ることや、意味のわからない遊びを発明することは、一見ムダに見えるが、人間の想像力を育てる大事な材料になる。AIは、子どもの質問にすぐ答えてくれるが、すぐ答えが出る環境は、子どもから「わからないまま抱える時間」を奪う。わからないものをしばらく持ち歩き、自分なりに考え、変な仮説を立てる時間は、思考の土台を形作るために欠かせない。
- さらに本書は、「自分自身のトレーニングデータを作り続けろ」とも推奨している。AIは大量のデータからパターンを学ぶが、人間は自分の記憶、体験、失敗、変なこだわり、子どものころの思い出、誰かと交わした会話などの雑多なものから自分を作り出している。これは、「人間にもトレーニングデータがある」と表現できるが、このデータは、ネット上の情報だけでは育たないところが難しい。自分のトレーニングデータは、現実の世界で面倒なことを経験し、退屈し、失敗し、身体を動かし、意味のわからないものに出会う、といったノイズの積み重ねこそが、人間の創造性の材料になる。AIは、文章も画像も音楽も作れるが、そこに意味を与えるのは人間である。
- そのため、AI時代にやるべきことは、逆説的に古臭いものになっていく可能性がある。たとえば、紙のノートにどうでもいいアイデアを書く、散歩する、知らない場所に行く、退屈する、人と話す、料理する、失敗するといった行動は、効率だけで見ればムダが多いが、そのムダの中にしか、自分だけのデータは存在しない。
ということで、今回は『私はロボットではない』って本のお話でした。AIが便利なのは当たり前なんだけど、本書はそこに人間の判断力、創造性、人間関係、子育て、プライバシーの問題までつなげているのがいいっすね。「人間なりのトレーニングデータを大事にしよう!」って発想は、なかなか芯を食ってるんじゃないですかねー。


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